「なんであんなことをしてしまったんだろう」「なんでもっとこんな風にできなかっただろう」と、過去を振り返ることがあったとき、心がモヤモヤしたり、脱力感や虚無感、自分責めに似たような感覚が起きるときがあります。
不思議なもので、例え今に不満があるわけでなくても、こういう感覚になることがあるものです。
脱力感が生じるのは、もう頑張らなくてもよいと身体や心が理解したから起きていること。
長く続いた緊張や葛藤がようやく解けたとき安心があるとも言えます。
そして、「こんなに頑張ってきたのに、少し違う方向を見ていたのかもしれない」という気づきがあると、その気づきには喪失感も伴います。
これはもう、人の「自然な反応」なのだと思います。
自然な反応だと分かっていても─それでも「あの時もっと早く理解できていれば」という自問が起きるとき。
これは、今の自分が、あの頃の自分を超えたから起きていると言えます。
”あのときの私は必死にやっていた。でも今振り返ると、違う方向を向いていた”などというように、「当時の正しさ」と「今の理解」が一致しなくなっているから、「なぜ」という疑問が起きているわけですね。
もし自分がまったく成長していなかったら、過去を見ても、「あれでよかった」「今も同じことをする」と感じるのでしょう。
でも、今の自分が「当時とは違う視点」で物事を見られるようになっている。
だからこそ、過去に違和感や戸惑いを感じて、「なんでもっと早く分からなかったのか」と疑問が湧く。
これは、「理解の次元」が一段上がったという証拠です。
心のズレや戸惑いは、痛みを伴いますが、それは成長の副作用のようなものでもあります。
こういう時は、過去の自分に対して、今の自分が優しくあげることだと思います。
時間を経て、痛みを経て、何かを見極める目を得たという、“理解できるようになった自分”の視点で過去を見ると、「あのとき、なぜ」と感じてしまいます。
このときの問いには「悔しさ」よりも、「過去の自分への慈しみの欠け」があるものです。
人はいつでも、持てる理解・感じ方・手段の中で最善を尽くしています。
この自分を認めてあげることで、癒しや前進がはじまるものです。
当時の自分が、一所懸命やったことが、例え今の自分から見ると無駄だと思えても、それがあったから今があることが事実です。
人は、正解を知っているから成長するのではなく、経験を通してしか本当の理解にたどり着けないものです。
今思うと、失敗や間違いに思えたことも、今に至るために必要な通過点で、方向が違っていたように見えても、今に至るための必然の道だった。遠回りのようでいて、最短の道だったわけです。
だから、がんばった自分を労うことがとても大切なのだと感じます。
人は「意味を整理して安定したい」という自然な欲求を持っているのでしょうね。
「なぜあのとき気づけなかったのか」という問いを立てることで、人の心は出来事に“筋道”をつけようとする。
それは、自己否定ではなく、「ようやく整理しようとしている心の作業」とも言えます。
言い換えれば、その問いが浮かぶのは、今の自分が過去を冷静に振り返れるほど、ようやく安全な場所に来たということ。
過去を「なぜ」と問うことは、まだ心の整理の途中であるだけで、時が来たら自然と消化されていくものです。
だからその問いが出ること自体を否定せず、「ああ、私はようやくここまで来たんだな」と、自分を認めながら、静かに時を過ごすだけでいいのかもしれません。
