愛は注げば返ってくる─愛の表現は穏やかばかりとは限らない?

「人を幸せにするために、まずは自分優先。自分軸で動く。」これは確かにそうだと感じることがあります。

自分自身が傷ついていたり、エネルギーが足りていない時、他者に思いを回すことができない時があると思います。

自分が疲弊している状態で他者を優先してしまうと、自分自身が倒れてしまうだけではなく、場合によっては「共倒れ」という状態になることも考えられます。

ただ、時にはそれでも、他者優先にせざるを得ないときもある。それが顕著になる例としては、子育てや介護などが当たるかもしれません。

異性の関係でも、こういった感覚が成り立つときがあるのだと私は知りました。


「愛」には色んな側面があり、何が愛なのかを断定することはできないのだと思います。

ただ、愛というのが、優しいもの・心地よいもの”だけ”がクローズアップされているように感じる時があります。

例えば親子間における「怒鳴る」という行為。

親が子どもに怒鳴る。子どもが親に怒りをぶつける。

どちらのシーンだって、怒りを向けられた側はカチンと来たりイラっと来たりして、感情的になることもあるのではないでしょうか。

親が子どもを怒鳴りつける時、その背景になにがあるでしょうか。

子どもが憎いからではなく、むしろ大切に思うからこそ、色んなことが絡まって、「怒鳴る」という表現になることがあります。

例えば、子どもがやりたいと言い始めた習い事のために、働きに出ているとします。

これは「子どものため」という親心がスタートです。

でも、親も人間ですから、働きながら子育てをしれば、心身ともに疲れることもあります。

その状態で、子どもが悪態をついてきたり、部屋を汚しっぱなしにしていたり、電気をつけっぱなしにして電気代がかさんでいたり…

日々のイライラやストレスが溜まって、何かをキッカケに子どもを怒鳴りつけたくたくなることも。

怒鳴ったところだけを切り取れば理不尽なシーンがあるかもしれませんが、潜んでいる「愛」について論じることは、どれほどあるでしょうか。


腹が立つことがあっても、傷つくことがあっても、それでも、(無自覚も含めて)愛を注ぎ続けるから、子どもは社会で生きていける人間になっていく。

「愛は注げば返ってくる」

この「返ってくる」が、「自分の思い通りになる」と捉えたら、返ってこないように感じてしまうかもしれませんが、子どもの自立は、親にとって一つのご褒美なのだと私は感じます。

だから私は、愛は注げば必ず返ってくるのだと思っています。


精神的・エネルギー的に疲弊している相手を相手にする場合。

心理的にも傷ついている状態では、人は他者に対して攻撃的であったり、閉鎖的であったりすることがあります。

私の彼はそうでした。

相手の行為に感謝できない。言動に突っかかってくる。相手を思いやることができない。自分のことしか考えられなくなる。

心理的な傷と、エネルギーの余力がない状態の彼に接して、過去の私には「ぶつかる」という方法しかありませんでした。

それは、子どもを思うがあまり感情的になってしまう母親のような状態だったでしょうか。

自分のやり方が良くないと分かっていても、咄嗟に感情的になる自分も、彼からの反応に傷つく自分も、何もかもどうにもできず、四面楚歌でした。

今、振り返ってみて、私のやり方が良かったとは思わないのですが、それでもこのプロセスは私と彼の関係には必要だったと思えるようになっています。

自己犠牲と自分軸のバランスが分かってきた私。

朝、目が覚めて、なんとなく疲れがたまっていたため、今日は彼に会う気分ではありませんでした。

そのため、彼に、会うのはやめようと思うと連絡したところ、「いらん事言ってしまったのか」という返信が返ってきました。

図らずして、彼に私を思いやる「余力」が戻ってきている証拠が取れました😊

自然なやり取り。こんな簡単に思えそうなやり取りが、私たちの間にはありませんでした。

ここに至るまで、彼の傷やエネルギー不足を私が理解し、時に補えるようになるまで、私自身が変化しなくてはいけませんでした。

それは私には簡単なプロセスではありませんでした。

でも、それでも、私は彼が傷ついているように感じられ、その彼を放っておけませんでした。

だから、私が自分自身の中で何かを掴むまで、進むしかありませんでした。

私のその動機を愛と言わせてもらえるのなら、やっぱり愛は注げば返ってくるのだと思う私です。